コロニア・デル・サクラメントはラプラタ川を挟んで、ブエノスアイレスのちょうど対岸に位置するウルグアイの小さな街である。
川を挟んでとは言ったが、ラプラタ川の河口部分は扇状に広がっているため両都市間は200km以上あり、高速船で一時間、もしくはフェリーで三時間ほどかかる。
このコロニア・デル・サクラメント、本当に小さな街で二時間もあればすべて見て回れてしまう上に特に見るものがあるわけではない。
ガイドブックを読んでも「1680年にポルトガルによって建設された貿易港。今でもコロニアルな建物が多数残っている」と書いてあるくらい。
しかしここはこの旅で絶対に見ておきたい都市のひとつだった。
というのも、スペインでラテンアメリカ史の授業を必死に受けていた際にこの街が“1680年にポルトガルによって建設された貿易港。今でもコロニアルな建物が多数残っている”というような説明では語れない歴史的重要性を持っていたということを知ったからだ。
コロニア・デル・サクラメントは1680年に、この地域のスペイン植民地の拠点であったブエノスアイレスに対抗する形でポルトガルによって建設された。
そしてここでポルトガル人が従事していたのは、貿易は貿易でも密貿易である。
スペイン人たちが南米植民地へのヨーロッパ製品の輸出を減らし、それらの製品の値段を吊り上げようとするのに乗じて、コロニアに拠点を築いたポルトガル人たちはそこからヨーロッパ製品をブエノスアイレスへ運び、代わりにペルーから運ばれてきた大量の銀を受け取るという密貿易をしていたのだ。
さらにこれら流出した大量の銀はポルトガルだけでなく、イギリスやオランダなどの手に渡ることによってヨーロッパでのスペイン王室の地位を危うくもさせた。
スペインはことある事にこのコロニアを占領するけど、すぐにイギリスの介入によりポルトガルに返還させられてしまう。
ペルーからブエノスアイレスへの銀の流出を禁じたり、コロニアの勢力拡大を抑制するためにモンテビデオ(現ウルグアイ首都)に大量の植民をしたりしてみたけど、銀の流出は止まらず、やっとアメリカ独立戦争に乗じてスペインが占領しイギリスにスペインの領有権を認めさせた。
という感じ。
こんなことを知っていると二時間に回れる小さな街でもとても有意義に回れてしまう。
僕はブエノスアイレスから高速船でコロニアに渡り、一日を過ごしてまた夕方には帰るというコース。
んーあまり書くことはないかな。写真でも見てください。