6月23日9か月ほど滞在したマドリードに別れを告げて、アルゼンチンはブエノスアイレスへ。
とは言っても直行便ではなくフランクフルト経由。
フランクフルトまでのフライトは約2時間、乗り換え待ち約3時間で、ようやくブエノスアイレス行の飛行機に乗り込むとびっくり。
どうやら、ユダヤ系アルゼンチン人の音楽隊+その家族の大所帯と乗り合わせたようである。
みなそれぞれ大きな楽器を持ち、頭にはお皿みたいな帽子を乗っけて、アルゼンチンアクセントのスペイン語でべらべら。とにかくにぎやか。
アルゼンチンの方々のにぎやかなせいもあって、アフリカ大陸の左肩をかすめるところまでは起きていたが、いつの間にか眠りに落ち、起きたらすでにブラジルの海岸線を南下していた。
そういえば大西洋を横断するのは初めての経験だ。
長時間のフライトと言えば僕にとっては日本―アメリカ、つまり常に太平洋上空、もしくは日本―ヨーロッパ、つまり常にユーラシア大陸上空(まぁ8割ロシア)だった。
なんか新鮮。
ブエノスアイレス到着予定は24日朝7時。
しかし到着予定時間になっても、地図上ではブエノスアイレス上空に居るはずなのに着陸しようとしない。
と思っていたら機内アナウンス。
「低い雲と濃霧による視界不良のため上空待機命令が出ていますので、着陸許可が出るまでブエノスアイレス上空で旋回します」
ドイツ語と英語でアナウンスしている間は静かだったまわりのアルゼンチン人たち、スペイン語で同内容のアナウンスが流れた途端に大ブーイングとため息。笑
小一時間ぐらい旋回を繰り返したのち無事着陸。
確かに凄い霧、そして寒い。
空港から市内へはコレクティーボと呼ばれる路線バスで行くこともできるが、所要時間は約2時間。
考えた末14時間フライトの後の疲れに負けて、空港シャトルバスで優雅に市内へ向かう事に。
市内に入るとすぐにホステルへ向かい、荷物を置く。
一休みすると、すぐにホステルのすぐ近くに住んでいるという大学の友人でブエノスアイレスに一年間留学に来ているYNさんと待ち合わせ、市内を案内してもらう。
このYNさん、留学も終盤を迎えているせいか、アルゼンチンアクセントを使いこなし、市内至る所を走るコレクティーボを全て把握し、すっかり「ポルテーニョ」(ブエノスアイレス人のことをこう呼ぶらしい)になっていた。
おかげで大変スムーズにいろいろな場所を見ることができました。ありがとうございました。
ブエノスアイレスの街並みはさすが「南米のパリ」なんて言われるだけあって、極めてヨーロッパ的。
逆説的ではあるけれど、スペインよりよほど“ヨーロッパ的”である。
これはアルゼンチン人の顔にも言える。
アルゼンチン人は金髪で青い目をした人が比較的多い。
これはイタリアやドイツからの移民、そしてスペインの植民者たちの多くが北部、特にガリシアの人々であったことに寄るのだろう。
ちなみに今でもアルゼンチンではスペイン人のことを「gallego」(スペイン語でガリシア人の意)と呼ぶのもそんな歴史にちなむらしい。
そんら「ヨーロッパらしい」ブエノスアイレスだが、 小さな路地とそれを囲む色とりどりの家が眩しいボカ地区、近代的な高層ビルがそびえるプエルト・マデーラ地区、貧民街もあり露店などが並ぶ少しケオティックなレティーロ地区などなど地区によって様々な特色がある。
貧民街のカオスからすぐ近くに見えるピカピカに磨かれたガラス張りの高層ビルとか見ると何だか凄くいやーな気分になるけれども、様々な要素が混在しているこの街は、歩いてみるととても面白い。
もう一つ、物価について。
南米=物価安い
というのは、少なくともアルゼンチン、チリでは通用しない。
スペインや日本と比べて安い物はあるけれども、基本的に同じくらい。
更にインフレが進んでいるためこの数か月で物価がどんどん上がって行っているとか。
その証拠にどんなレストランに入っても、メニューの値段の部分は修正液で消されて新しく書き直されている。
ホステルであったバックパッカーたちも口を揃えて「アルゼンチン、チリに長居すると破産するから早くボリビアあたりに戻りたい」と。
物価が高い、そしてYNさんのおかげで効率的にいろんなところを見せてもらったこともあって、早々にブエノスアイレスは脱出。
さて、恒例のお写真のお時間です。
世界一広い通り、7月9日通り。 |
ボカ地区 |
マテ茶を持つダビデ |
みんなこの隅でタチションするから、こんな絵まで書いちゃったのかな。 |
世界で二番目に美しい図書館。なぜ二番目?笑 |
国会議事堂 |
5月25日は革命記念日。みなアルゼンチンの旗を掲げてます、 |
大統領府。夜にはピンクにライトアップされて超悪趣味。 |
レティーロ地区。線路沿いに形成されている貧民街。 |
ブエノスアイレス近郊の街、ティグレ |
0 件のコメント:
コメントを投稿